中国版話芸、相声について

相声

 相声といえば中国の伝統の話芸の一つで、単口相声は落語の演出形態に類似し、対口相声は2人での漫才の形式に近い。その他、三人以上の演出は全て群口相声と称する。声帯模写や生活像がもとなので像声や像生とも書くという。どれも一貫した内容を持っている。単口は今日まれで対口が圧倒的である。芸は早口言葉、リズミカルな朗誦、方言、一気呵成につらねる口技のほか、機知にとんだ即興詩や、声帯模写、芝居唄、俗曲、手品、武術の型など色ものの要素も含まれている。

起源

 相声はいつから現れたかいうと、諸説あるものの、「韓非子・難三」によると、中国の春秋戦国時代諸国の宮廷には「俳優」という芸人たちが滑稽な言語と仕草で王宮大臣の笑いを博す職があった。この「俳優」というものが、相声界の起源とされている。

相声の例

祖師(非公式)

 漢代、漢武帝が統治する間に、東方朔という官員がよく武帝に「俏皮话」というユーモアな話術で無益なことをさせなかった事から、滑稽と相声と「祖師爺」と呼ばれていた。

祖師(公式)

 清の道光年間(1821-1850)、北京出身の芸人で「管儿张」の名でも知られる張三禄という人物が登場した。彼は文献記録を持つ最初の相声芸人として知られている。関連記録と推測によれば、張三禄はもともと八角鼓のコミック役の芸人で、その後、相声を語るようになったとされている。彼は「最初の相声芸人」として認識されている。

現代における発展

 相声も発展を求めて多様化してき、内容とスタイルがますます幅広くなり、多様なテーマや形式が取り入れられるようになっている。政治的な話題から日常生活のエピソード、社会的な課題まで、相声は様々な角度から現代社会を描き出している。また、伝統的な2人組から複数人でのパフォーマンスまで、形式も多様化している。
 一方で、相声の伝統的な「家元」制度は依然として存続している。家元制度とは、一つの相声の流派の長、つまり師匠が弟子を取り、自身の芸を伝えるという制度である。この制度により、相声の伝統的な技術やスタイルが維持され、次世代に引き継がれている。しかし、徳雲社のような現代の相声グループはこの制度に新しい息吹を吹き込み、より広い視聴者層に対応する形で伝統を継承しようとしている。

徳雲社の師匠たち


 中国の相声の芸人は、この張三禄を初代の「祖師」として代々師承(師匠に正式に入門し、弟子として認定される師弟関係を代々受け継いでゆくこと)の関係を重んじてきた(この点は日本の落語家の師弟と似ている)。中国のプロの相声芸人の多くは、張三禄から数えて「第x代相声演員」というくくりで分類される。2023年現在、活躍中の相声芸人の最も若い世代は「第11代相声演員」である。
 「徳雲社」は、中国で最も有名な相声グループの一つで、伝統的な相声を継承しつつも新しい表現方法を取り入れることで、伝統文化の伝播に貢献している。
 上記に登場した徳雲社は2005年に創設され、創設者であり現在も中心メンバーである郭德纲氏が、相声の伝統を受け継ぐために立ち上げた。同社は相声の伝統的なスタイルを堅持しつつも、時代のトレンドや観客の好みに合わせた改革を進め、伝統芸能と現代社会の橋渡しを果たしている。
 現在、徳雲社は社会メディアやテレビ番組、ライブイベントなど様々なプラットフォームを通じて、相声を広く一般大衆に普及させようとしている。特に若者向けのコンテンツ作りに力を入れ、メンバーの一部がアイドル化するなど、新しいスタイルを模索している。
 また、徳雲社は定期的に「徳雲社相声学院」を開催し、相声を学びたい若者に対して教育の場を提供している。こうした活動を通じて、徳雲社は相声の伝統を次世代に引き継ぐ役割を果たし、伝統と現代性を融合させ、相声を若者たちに親しまれる新たな文化形式として広めることに成功している。

執筆者

蒋 若楓(ショウ ジャクフウ)


 1998年12月5日、中国江蘇省常州市生まれ。
 2017年に来日し、神戸で4年半間の大学生活送り、2023年現在は1年間の和歌山での生活を経て和歌山を好きになった。
 小2から中国の古筝と言う伝統楽器を続いてきてる。趣味は撮影、ドライブ、旅行、音楽、囲碁などなど。
 アニメが好きで、声優を好きになり日本語を勉強し始めたのが日本文化が好きになったきっかけ。
 かなり好奇心旺盛でなんでも新しいことを試すのが好き。伝統音楽も流行音楽もどっちも好きで、ライブやコンサート、イベントによく行く。

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