原爆、そのあとの差別

出張から帰り、いつものように嫁から渡される新聞の束。普段は一応、毎日読むようにはしている。数日分の新聞を見る。スマホですでに知ってるニュースを改めて紙面で見て、ああそうだった、と確認する作業。その中で、一つの記事が目に止まった。ああ、これはあとでしっかりと調べなきゃ、読んだ後にスマホで撮影して、溜まった仕事を片付ける。

朝日新聞「母に会いたい」仏の道へ

朝日新聞の8月6日、8月9日に向けたシリーズだった。「絶たれた明日 被爆78年」。第3回目の記事は広島の原爆の後、残された戦災孤児のことについてだった。のちに国会議員にもなる山下義信さんは、自身と家族の私財を投じて「広島戦災児育成所」を設立し、疎開中に原爆で家族を失った児童を受け入れた。

ある日のこと、
「お母さんに会いたい」
一人の男の子が、空を眺めながら泣き出した。
大工の父親は早くに病死し、髪結いの母親と妹は原爆で亡くなった。遺骨は見つからずじまいだった。
男の子は、通りかかった祖父のように慕う山下さんに尋ねた。
「どうしたらお母さんに会えますか」
山下さんは押し黙った。
男の子が続けた。
「お坊さんになったら、お母さんに会える?」
山下さんはこらえきれず、「会えるよ」と答えた。
「お坊さんにしてください」
男の子は当時10歳だった増田修三さん、年長の少年4人も続き、5人は山下さんと抱き合って泣いた。
46年11月、京都の西本願寺で得度し、少年僧5人が生まれた。 

朝日新聞デジタル(絶たれた明日 被爆78年:3)「母に会いたい」仏の道へ

当時の少年僧たちのまっすぐな気持ちが届く記事だった。そして、そこには悲しみがある。

大学生だった頃、相国寺の禅僧、平塚景堂師に師事していた。師の師匠は名古屋の生まれで長野県飯田市の住職だった。名古屋空襲で両親を亡くし、お葬式でお坊さんに「お母さんはどこに行ったの?」と聞いたそうだ。そのお坊さんはそういうことは「禅僧に聞きなさい」と答え、彼は禅僧になった。そのことを思い出した。

記事に戻る。増田修三さんはその後、僧侶、朝倉義脩となり、福井市の寺の住職となったという。自分自身、福井市にも縁があったので、少し調べてみた。すでに義脩和尚は亡くなり、御子息が継がれているという。そして、その方は福井時代にもお世話になった方だった。あまりに驚き、連絡をとってみる。すぐに電話がかかってきて、いろいろとお話できた。

その方も、父親の足跡を尋ねて、広島に行ったそうだが、誰もその当時のことを話さなかったそうだ。

原爆、そのあとの差別。伝染するという噂もあり、村八分状態になることもあったという。悲しみ、そのあとの差別。

嫁の祖父は元海軍兵で呉で原爆のきのこ雲をみたという。そして家族にはそのことを絶対に誰にもいうな、と言っていた。今は言葉ではわかっていても、わからない、差別があったのであろう。吉田喜重監督の「鏡の女たち」も、そのような当時の空気が前提として描かれていたのかもしれない。

Yokosuka1953に描かれた戦後混乱期の日本。混血児への差別。また、時折聞く、引揚者への差別。悲しみの時代に、あたらに生まれていく分断の連鎖。

戦争は、多くの悲しみと分断を生む。それは他者が行っていることではなく、私たち自身もその分断の加害者になっていることもある。そのことを考えて、次の時代のために、学びたいと思う。

木川剛志

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