2015年4月、9年間住んでいた福井県福井市から和歌山県和歌山市に大学の異動と共に移住しました。

それまで福井で何をしてたのだろうか。今思えば2011年からのフクイ夢アートの企画委員としての活動が最も大きかった。多くの福井の人たちと出会ったのはこのイベントを通じてでした。福井市出身の俳優、津田寛治さんに監督を依頼し福井市民と一緒に製作制作した「カタラズのまちで」。これも企画委員として企画立案し、プロデューサーをつとめたものです。その津田さんとの映画製作がきっかけで、その後福井工業大学デザイン学科の学生たちと「君がいた街」や「福井の旅」といった短編映画を撮ることにもなりました。

特に「福井の旅」、またこれは後日詳しく語りますが、当時の私の心境、福井にいる自分自身を振り返った作品でした。この製作は2013でしたが、その当時私は落語に大変はまってしまっていました。露の都師匠が福井で開催されていた「ふく福落語会」で落語を習ったりしていました。2012年に大阪は九条出身の女性と結婚したのですが、同じく九条出身ということの縁でアナウンサーの鳴尾健さん(現在、瓢家萬月と福井では呼ばれています)に仲人をお願いしたのですが、彼も大の落語好き。酒の席ではいつも落語の話題で盛り上がっていたのですが、いつしかその鳴尾さんを席亭に、ふく福落語会で同門だった葵亭真月さんをはじめとした落語愛好者で2014年に福井駅前寄席きたまえ亭を開館することになってしまいました。このきたまえ亭で大変お世話になったのが桂花團治師匠(当時は桂蝶六師匠)でした。それが「福井の旅」へとつながっていくわけですがそれは後日語ります。つまり、福井で中心市街地の活性化事業に関わるうちに映画を撮るようになり、福井でいつのまにか落語を愛するようになっていたわけです。寄席小屋は2014年末に休館となり、同じ時期に私の和歌山への異動も決まりました。

そんなこんなで住民となった和歌山市。映画を撮りたい、落語をやりたい。でも一年目は何もできませんでした。むしろその頃はまだまだ福井でやり残した仕事をしていました。和歌山でも少しずつ知り合いが増え、やっと2016年の春、和歌山の社会人落語会、わかやま楽落会から落語会へ客演での出演依頼がきました。

フォルテワジマで開催された落語会。やはり和歌山は関西です。みなさん上手な上方落語。客も多くてよく笑ってくださいます。文化として落語が根付いていることを感じました。出演者も多かったのですが、出演しない人も手伝いとして集まっています。楽屋は盛り上がっていました。みなさんが本名ではなく高座名で呼び合い、いついつのボランティア寄席には誰がいく?どうする?と楽しそうに話されていました。この人たち、みなさん本業の仕事が他にあって、彼らをつなげているのは趣味である落語です。この人間関係は実はすごいことではないでしょうか。今の日本社会では、社会人になったら仕事以外では新しい人間関係はなかなかに生まれません。そんななかで、ここにいる愛すべき中年たち、和歌山のおいやんたちはこのように友情を育まれている。それがとても魅力的に見えました。和歌山で初めて映画にしたい、と思う世界をそこで見ることになったのです。

和歌山にきて一年。学生とそろそろ映画を作りたい。また、その間に和歌山の街中には全国の映画監督たちをびっくりさせるような魅力的なロケ地候補が見つかっていました。

「映画を撮りませんか」とわかやま楽落会に恐る恐る提案しました。この私の申し出に意外や意外、みなさんノリノリでトントン拍子に企画は進みました。多くはわかやま楽落会の方々に出演していただき、撮影監督は大学の同僚である尾久土正己さんにお願いしました。一部の出演、撮影スタッフは和歌山大学の学生がつとめました。

撮影は2日間。その時は学生たちもほとんど撮影の経験がなかったので、むしろ練習のつもりぐらいの緩やかな撮影スケジュールを組みました。出演者にもいつも通りにしてください、と演出も薄い目。ところが撮影は不思議とうまくいったのです。普段からの出演者たちの友情関係が絵に乗っていました。制作進行もとてもうまくいきました。普段から落語会の設営で培われていたチームワークでしょう、順調にオンタイムで撮影は進行しました。ラストカットは元寺町の堀に架かる橋。当時の私が和歌山で一番好きな風景でした。

私はこれまでに作った短編映画では、いつも主題歌ありきで進めてきました。主題歌を自分の中で決めて、何度も何度もその曲を聞きながら台本を書く。しかし、この映画「替わり目」には主題歌はありませんでした。ただその時に、元寺町のちかくにUOという酒蔵を改装したレストランがあり、そこの大根田晃久さんがミュージシャンで、彼が作曲し小西博之さんが作詞した「紀州人」という曲に出会います。和歌山の錚々たるアーティストが参加する曲でした。そしてこの曲には小西博之さんの大いなる思いが込められていました。曲の収益は和歌山県の8箇所の児童福祉施設に寄付する。彼の夢は和歌山県に児童福祉施設出身の子たちが帰ってくる場所をつくることでした。その思いを聞き、大根田さんに「紀州人」を主題歌にしたい旨を伝えると快諾していただき、映画は完成しました。

県立図書館でのお披露目。その日は「福井の旅」も同時上映で、主演の桂花團治師匠も一緒でした。90名以上の観客はよく笑ってくれました。ようやく福井でやってきた活動が一年間の間をあけて、和歌山で再スタートをきれた瞬間でした。

しかし、この映画のドラマはこれでは終わりません。商店街を舞台とした映画なので、長野県松本市で開催される第9回商店街映画祭に応募しました。演劇界の巨匠、シアターコクーンで芸術監督もつとめられた串田和美監督、日本で最も売れている映画監督である山崎貴監督が審査員をつとめる映画祭です。これにノミネートするどころか、グランプリと串田監督賞のダブル受賞をしてしまうことになるのです。

グランプリの影響は大きかったです。賞金は「紀州人」の趣旨から児童福祉関係に使うと宣言したので、その方面のことを勉強することになり、山村留学や戦災孤児のことを調べるようになりました。だからこそ、最近全国放送ともなった横須賀で生まれた混血児の女性の方の母親探しにつながりました。また、その後の短編映画「七曲ブルース」、「河西橋」もこのグランプリがあったから実現しました。

「替わり目」。正直なところ、ここまで評価される映画になることは全く想像していませんでした。でも何度も見返しているうちに「映画になる瞬間」があったことに気付きました。主演の三太が会長と仲直りをするシーンです。三太への指示は、二人で笑うだけだったのに、なぜか彼は笑いながら泣くのです。これは私の演出ではありません。普段通りでお願いします、この指示で演じながら三太は何かを感じ、泣いたのです。このドキュメンタリー性とでも呼ぶ予想外のことが起こり、「替わり目」は映画になりました。つまりは私の力量が作ったわけでは全くない映画、偶然が生み出した映画でした。

「替わり目」は、現在、多くの人に見ていただきたく、ユーチューブで全編公開中です。是非にご覧いただき、ご感想をお聞かせください。

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