このプロジェクトについて

木川剛志のFacebookに一通のメッセージが届きました。送り主はアメリカに住むシャーナ。

I’m looking for relatives in Japan or that have moved to the USA. My mother was adopted from Japan by American in 1953. And her last name was Kigawa, First name was Yoko.

日本に住んでいる親族を探しています。私の母親は1953年に日本からアメリカへ養子縁組されました。母の日本での名字は木川、名前は洋子です。

彼女はFacebookで母の旧姓「木川」を検索し、私に行き着いた。ただ、私の木川家には思い当たる人はいない。しかし、日本語ができずに調べるのは大変だろう、と、シャーナにいろいろ情報を聞いてネットで調べてみた。

私は都市計画を専門として、戦前の日本や韓国、台湾の年を調査してきた。そして戦後間もない頃の戦災孤児のことを知り、その調査も進めていた。ただ、直接的な資料は年月が経っているので入手は困難で手に入るものは多くなく、また学術論文に使用可能な精度の高いものもなかなか見つからず、ただただ人々が言い伝えていること、それだけが自分の研究ノートに増えていっていた。戦後の子供達はこんなに大変だったのか。上野駅に集まり雑魚寝する子供達の写真に涙することもありました。

そんなときに届いたこのメッセージ。そして、調べると戦後の混血児たちのことが少しずつわかってきた。同時代の研究をしてきたつもりなのに、まったく知らなかった世界。シャーナから彼女の母親が養子縁組されたことを綴る当時の記事を送ってもらいました。。

「無籍の混血児に注ぐ愛情」 1953年7月23日 朝日新聞第2神奈川版

「アメリカン・ショール・グリニック派宣教師、長谷川太郎さん(27)と夫人のメリー・長谷川さん(27)が「家族の反対や、母親の無理解から入籍されずにいる混血児を養護したい」と葉山町一色932の荒れはてた別荘を買取ってはじめた幸保愛児園は、夫妻の愛の努力がむくいられ、20日に県から混血児養護施設として許可がった。新婚の二人は昨年十一月、日本人が南方に残してきた混血児を救護する目的で別荘を買ったが、横須賀には二百人以上の無籍の混血児がおり、ほとんどが母親と一緒に夜の女のハウスに育てられているのを聞いて、日本の現状を救うことが先決問題だとして計画を変更。二人は宣教師としての月給約四万円とアメリカからの少しの援助を元に、街に出てはあわれな混血児を探し回り、母親が更生するというのを条件に、すでに九人を引取り養護している。

一方、この二人の熱心な行為に動かされた、米軍武山部隊戦車大隊の将兵八百名は毎月一人一ドルずつを集めて援助金として贈ってくれるので、荒れはてた家も立派に補修され、敷地の二百五十一坪もこのほど買収することが出来た。またこの明るい話は部隊から部隊へと知れ渡り、三十五人の米兵から養子として育てたいと申し込まれているが、夫妻は「子供の入籍が許されてから良い両親を探します」といい、すでに入籍された木川洋子ちゃん(五才)だけが武山部隊のルーベン・ドナルド・シネックス中尉(34)夫妻の養女として許されたので、ルーベン中尉の出身地である米国オレゴン州ポートランド市へ渡ることになった。」

長谷川夫妻の話

夜の女のハウスにいる混血児のほとんどは三度の食事も定まった時間に与えられず、入籍されておらず、日陰者として扱われているが、すくなくとも入籍だけはさせてやりたいが、捨子ではないのでむずかしく児童福祉関係者の真からの協力がほしい。」

私の子供もこの記事を読んだ時にはちょうど5歳。彼女の当時の境遇を考えるといても経ってもいられなくなり、横須賀の街へと向かいました。シャーナから預かった資料で、洋子さんの生まれ故郷は秋谷ということはわかりましたが、旧住所だったのでその範囲は広く、その範囲にはたくさんの住宅がありました。道を歩き、出会った人には「このあたりに昔住んでいた木川さんをご存知じゃないですか?」と聞きました が、誰一人知らない。66年。その時間は、たった一組の家族がいたことさえ、忘れてしまったのです。

ちょうどその時、授業が一週間ない週ができました。もうこれは行くしかない。本人の記憶を辿らないと秋谷のどこだったのか、またそれとも秋谷ではないのか、それがわからない。アメリカのフォートワースに行きました。

(つづく)

製作中のドキュメンタリー「Yokosuka1953」のティーザー映像

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